積み石の意味から広がる可能性——宗教・登山・玩具

積み石の意味から広がる可能性——宗教・登山・玩具

バランスと創造的感覚を養うための積み木として注目を集める、A4(エーヨン)の「tumi-isi」。積み上げたり、並べたり、飾ったり、使い手の想像力の限りさまざまな遊び方ができる玩具だ。

A4 | tumi-isi
A4 | tumi-isi MINI-MIX(9ブロック)
A4 | tumi-isi HARD WOOD MIX(5ブロック)

一方で、山道や海、川で目にする自然の石を積み上げたものを目にすると、恐怖を感じる人も一定数存在する。同じ「積み石」でも文脈が異なるこれらを考察することで、「石を積む」という行為の意味を改めて考えていきたい。

積み石の意味・由来を知る

山や川で目にする積み石は、その場所によって異なる意味を持っている。

三途の川(賽の河原)の積み石は怖いものなのか

積み石で有名なのが、三途の川のほとりにある賽の河原(さいのかわら)。ここは、親を遺して亡くなった子供が集まる場所である。彼ら彼女らは現世に残る親のために石を積んで仏塔を作り、功徳を積もうとするが、塔が完成する前に鬼が出てきて壊されてしまう。そのため「賽の河原」は、報われない努力の代名詞としても使われる。

青森県の恐山や長野県の御嶽山など、賽の河原と呼ばれる場所は国内に点在しており、そこでも積み石を目にすることができる。しかしこれは、亡くなった子供たちの徒労を再現する悲しいものではなく、現世の私たちが子供の供養のために、代わりに石を積んでいると言われている。

天岩戸で有名な天安河原に積み石がある理由

他方、宮崎県には天安河原(あまのやすかわら)での積み石による祈願が有名な、天岩戸神社がある。天安河原は天照大神が岩戸に身を隠した際に、八百万の神が集まり話し合いを行った場所とされている。

そこにある多くの積み石は、実はもともと特別な意味を持っていたわけではなく、祈願を行う人たちの手によっていつの間にか石が詰まれるようになったもの。それが何気なく続いていくうちに、石積みをして願い事をすると願いが叶うと言い伝えられるようになったようだ。

賽の河原と天安河原。この二例だけをみるだけでも、同じ日本国内の積み石であっても成り立ちによって、意味が異なることが分かるだろう。

登山道・山頂で目にする積み石「ケルン」とは

日本における宗教的な意味を持つ積み石とは打って変わって、世界中の山岳で目にする「ケルン」と呼ばれる積み石がある。これは自然に生じたものではなく、人々によって山のように積み上げられた石をこう呼び、道標として積まれたものが始まりといわれている。

しかし現在は道標の目的以外にも、過去に遭難があった場所に慰霊や注意喚起のために置いたり、山の頂上のシンボルとして置いたり、はたまた特に意味もなく積み上げたりと、意味合いが散じており、ひと目見ただけでは意図を判断できない場合が少なくない。

積まれた石が歩く人の邪魔になるという意見や、自然保護の観点から石を勝手に動かすべきではないなどといった意見もあり、特別な意味がなければ石を積むことはあまり勧められていないのが実情だ。

娯楽・芸術・インテリアとしての積み石

多様な歴史的背景もさることながら、そもそも絶妙なバランスで重ねられた積み石を目にして、驚きや感動を覚えた人も少なくないのではないだろうか。河原の石を美しく積み上げる「ロックバランサー」と呼ばれる達人がSNSを通じて世界中から注目を浴び、メディアで紹介されることも増えてきた。

自分を日常から解放して石を積むという行為を楽しむという点では「娯楽」であり、奇跡的なバランスで成り立つ作品の美しさを鑑賞するという点では「芸術」でもあり、それが河原を出て家の中を彩れば「インテリア」となる。それらは、石を積むことに対して言説や目的を追求するものではなく、素朴に暮らしを彩るものだ。

A4 | tumi-isi
A4 | tumi-isi MINI-MIX(9ブロック)
A4 | tumi-isi HARD WOOD MIX(5ブロック)

積み石は怖がるものではなく、親しむもの

宗教的なシンボルや、登山客へのメッセージなど、かつての人々が石を積むという行為に意味を持たせていたのは、積み上げるという行為や不均衡なバランスが織りなす神秘性に特別なものを感じていたからかもしれない。

しかし一方で、特別な意味を持ちそうに見える積み石も、時を経ることで意味合いが変遷し、「なんとなく」や「いつの間にか増えた」といったいい加減ものが少なくない。そのことを踏まえると、重く捉えすぎたり、恐れを感じるのは杞憂なのかもしれない。

まずは深く考えずに頭を真っ白にして、手の感覚だけを頼りに積み上げてみる。積み石は、あれこれ意味を考えすぎてしまう大人の悪い癖を取り払い、自由な創造性を育むのに適したツールではないだろうか。

ブログに戻る